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シーラカンスは深淵をゆく

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昔の番組の話から

 小学校4年か5年生の頃にNHKで毎週夜7時20分ごろから放送されていた物だと思う。全部で6回ぐらいの構成で、社会問題や自然、環境、人の暮らしなどを特集していた。親が見ていたので僕はそれを何となく見ていた。でも、あるシリーズだけは食い入るように見た。

 北海道の斜里郡小清水町を舞台にしたキツネの家族の特集だ。たしかそのシリーズのタイトルは「チロンヌップの歌」だったと思う。

 どうしてこんなに記憶に焼き付いたのか。子ギツネたちのかわいらしさに魅かれたということもある。もしかすると、キツネの生活環境を表すために挿入された町の人々の中に可愛い女の子が映っていたからなのかも知れない。でも、僕の心をとらえたのは番組の話の区切りになる部分に使われた、暗めのスポットライトの中でギターを抱えて歌う女性の歌だった。特に最終回の歌は今でも覚えている。

 わたしの こどもたちよ さぁおいで
 これから とおい ところへいくのよ
 そこには きれいな はなもあるけど
 おそろしいことが たくさん あるのよ
 わすれないで ほしい
 わすれないで ほしい

 そして あきかぜが ふいたら
 こんどは ひとりで いくのよ
                  ♪

 あの歌手が誰だったのか知らない。
 歌の題名も知らない。

 でも、僕はこうして覚えている。そして僕の生き方の一部になって、子どもたちへの接し方の基盤になっていた。


 もう今は離れてしまった僕にできることは何か。

 彩りに溢れ光に満ちた作品を世に出すこともいい。でも、僕はあの子たちが、そして僕と関わった多くの人たちが迷ったり挫けたりした時にこそ力になるような作品を撮りたい。

 ただそれだけだ。



 大きなことをここで文字にした。あとは撮り続けていけるかが問題だ。






# by musapoo-world | 2015-04-07 16:19 | 写真について

卒業アルバムについて思うこと

卒業アルバムを何冊も手がけてきたので、それを見るとその学年の取り組みが見えるようになる。写真の中の表情がキラキラしているもので埋め尽くされていることはもちろん、最後に一人一人の作文のタイトルだけ見て追うだけでも感じ取れる。

僕が最近見た卒業アルバムはすごかった。写真はにこやかだったり真剣だったりいい表情ばかりだ。そして文集のタイトルをみて鳥肌が立った。三十数名の子たちの作文の内容は色々な場面に分散していた。運動会やソフトボール、学習発表会、委員会活動、色々な活動で得られたことが触れられていた。そして苦しいだけしか記憶に残らないようなマラソン大会までの活動で得たものは何かを書いた子を発見した時には手が震えてしまった。

一人一人が色々な場面で自分を発揮しようとしていたんだなって思う。

逆にこれまで僕が見てつまらないなぁと思うのは、修学旅行のことばかりの文集だ。修学旅行は楽しいしすごくインパクトがあるのは分かるけれど、それよりも一人一人が自分が成長したと感じさせることのできる教育活動にはたくさんあっていいはずなのに、それが表れてこないのは学級や学年での取り組みがどうだったのか考えてしまう。




# by musapoo-world | 2015-03-28 00:56 | 日々の生活

フロンティア層の減少

「フロンティア層の減少」という言葉だけが残っていて、詳しい話は忘れてしまった。

新しいものに真っ先に飛びつく人が少なくなってしまったという話だったと思う。そしてその原因は商品のレビューやレポートがネット上に溢れ、ほとんどの人がそれを見て購入するかしないか判断するようになったからだと。

確かにそれは当てはまるだろうなと思った。

ネットがこれほど発達する前は、一人の人が1ヶ月の間にどれだけの人と雑談していたか。100人と雑談していたら多い方じゃないかと思う。その100人の中に新しい物好きが二三人いて新商品を買っていろいろ聞かせてくれる。数字的には根拠は全くないけれど2−3%のフロンティアが存在していたことになる(とする)。日本の人口1億人としたら100万人以上の新しいもの好きがいることになる。

ところが現在は、新商品に対してすぐにレビューなりレポートなりが出され、新商品に対して事細かに教えてくれる。失敗するかも知れないけれど買おうという人はおのずと少なくなる。

情報の共有だ。

商品の善し悪しを消費者が教えあえるのだ。損することを覚悟して購入する人が少なくなった。企業にとって見ればすごく厳しい状況だけど、そこを逆手にとって戦略を組むことだってできる。


そんなことを思いながら日頃自分は何を基準にしてレビューを読んでいるのか考えてみた。

1 初めて購入した人の意見はパス
 例えば「万年筆を初めて購入しました」とあったら、その人のレビューは僕の中では意味を成さない。ある程度万年筆を使ったことがない人でないと、そのモデル(メーカー)のよさは分からない。

2 こだわりが強すぎる人もパス
 初めての人と逆で、あまりにも色々なことを知りすぎていて、あまり気にしなくてもいいことに対して突っ込んでレポートされていても、それが自分のこだわり(感覚・感触)と一致しているかどうか分からないし、だいたい基準がそれぞれ違うのだからそこまで言われても使ってみなけりゃ分からないってのもある。

3 思い込みが強い人もパス
 このメーカーがいいと思い込んでいる人。または自分の選択に間違いはないと自分を納得させたい人。なんにせよ長所があれば短所があるわけで、その両面に触れないでいるものは避けてしまう。カメラならばweb上にある作品(試写ではない)を見に行った方がよほどいい。

4 広告っぽもの
 たぶん、テレビや雑誌に広告を載せるより、消費者を装ってレビーを投稿する方が売り上げを伸ばせるものもあると思う。多額な広告料を使うより、アルバイトを雇って自社製品のレポートをさせる方が効果的。画一的な文言だったりメーカーや雑誌の商品紹介にでていることだけだったりしたら疑ってしまう。

5 一方的な流れになってしまっているもの
 「これはいい」「これはいい」という意見が多い中で「これはよくない」と言える人がどれだけいるか、という点(その逆も)。レビューを投稿する時点での投稿者の心理も考えた方がいい。なかなか一方的な流れができてしまうとそれに逆らうことを言うのはためらってしまうのではないかと思う。


 まだいくつかあったけれど、こんな感じでレビューを見ている。特に高額のものには3が強く表れると思っている。人は自分が選択したことが正しいという意識がどうしても働いてしまう。欠点があってもそれは見なかったことにしようとか、良い面を強調しすぎるとか・・・。

 とは言うものの、レビューはホントのところ参考程度だ。最終的には自分が使ってみなけりゃ分からない。納得すれば長く使うし納得できなかったら次を考える。だからといってほいほい新しいものを手に入れているわけじゃないから、僕の周りには古いものがたくさんある。

# by musapoo-world | 2015-03-08 22:21 | 機器と情報

作品集について

Shashin-book Awardに出品して、そこで得たこと、感じたことをまとめておく。

〇写真集は作品のカタログでも自分のポートフォリオでもないということ。えてして個々の作品を1つに収録したものになりがちになってしまう。「集」という文字を使うからそういうイメージができてしまうのかも知れない。1冊で1つの作品なんだという意識を持つこと。

〇1冊で1つの作品とするためには、最初から最後まで一貫しているものがなければならない。一枚一枚のクオリティを上げることはもちろんだけど、一枚一枚に根ざす思いというか狙いというか、そういった物が深いところでつながっていなければならない。その写真集で伝えたいことはなんなのか。表面的な美しさや素晴らしさでもいいけれど、もっと人として心の奥底にあるものに触れることのできるテーマを持ちたい。

〇ストーリー性を持たせることについては、単体の作品じゃない集合体としての作品の一番の醍醐味だ。今回出品した「水の姿・心の形」は明確にストーリーを持たせてあった。ただあまりにも見え透いたストーリーだった。表面的に完結してしまっていると一度見ただけで納得して終わってしまう。だから表面的には流れがあっても、写真の奥に潜むものは簡単に分からないほうがいい。特にキャプションなどで言葉による説明のし過ぎには気をつけなければならない。

〇見た人に問いを投げ掛けることができるか。これが難しいところだ。何度も見ていくうちに「ああ、そうか」と腑に落ちるような構成。表現したいテーマと選択した被写体達の関係。現在進めている「花の紋章」は撮り始める時に何か引っかかるものがあって撮影を先に進めた。その途中で引っかかっていたものが自分の中で解けた。解けたと同時に見る人への問いの投げ掛けとして適切な被写体を選んだり撮り直したり処理し直したりということを行っている。それがうまく行くかどうかは分からない。


ストーリー性と問いかけの兼ね合いは難しいけれど、小説ならばストーリーがあって作者はそのストーリーで何かを伝えようとしている。そしてその伝えたいことというのは文中に解説するみたいに言葉として書き表していない方が深みがある作品となる。写真の作品集もそれと同じなのかも知れない。美しさや驚きを「美しい」「すごい」といった直接的な言葉で表現しない方がいい詩と同じだ。


と言うわけで、単品の作品としての質を上げながらも、作品集としての質も上げていきたいと思っている。

# by musapoo-world | 2014-10-23 22:45 | 写真について

【順位が上がったよ】


うちの小僧が先日家に帰ってきて「順位が上がったよ」と言っていた。何かと言えば4月に行われた学力状況調査についてだ。静岡県は昨年、国語Aで全国最下位の平均点だった。そこで静岡県知事が市町村の結果の一部を公表した。そして今年も市町村の許可なく一部を発表した。

昨日からネット上に出てくる記事は、知事が発表したことが違法なのかどうなのかという視点が多かった。それと同時に「順位」と言う数字だけにこだわっていて、この1年間県ではどういう取り組みがなされてきたのか、という調査報告は見当たらなかった。現場の先生方の努力が・・・という言いかたでくくられているぐらいだ。

一番大事なのは、授業をどのように充実させて子どもたちに学力をつけていくかだと思う。先生方は研修会に行ったり研究授業で意見を交わしたりして大変な一年を過ごしたのではないだろうか。特に昨年の5年の担任の先生方は気がきではなかったと思う。

先生方や子どもたちの頑張りは大したものなんだと思う。それはそれとして素晴らしいことなんだけど、何をどう頑張ったのかははっきりさせなければならない。でないと平均点を上げるためだけの取り組みに偏っていってしまう。これまでに授業時間を削って学力調査の問題に慣れるためのプリントを数時間行ったり、あまり点数を取れない子供を欠席扱いにしたり、とにかく平均点を上げようという話を耳にしてきた。これはただの想像だけど「苗植え」とか「指さし」と言われるテスト中に間違っている子供の問題用紙の間違えている個所に無言で指を付け考え直すように促す行為があったかも知れないのだ。

過熱すれば過熱するほどそういう取り組みが増えて、本当につけたい学力とは違った結果が出てくるようになってしまう。学力状況調査が調査ではなく目的が違ってきてしまう。

これは東京都の話だったけれど、公費で行った調査である以上公表は当然だと言う意見があり、公表された結果を市民が見て学校選びの基準にしている人たちがいる事実がある。これに対して、公立学校では先生が替われば結果も変わると言う教育委員会の見解があり、そこには先生方の技量には明らかに差があることを認めていて、将来、調査の結果によって先生方の優劣を見極める材料にもなりかねないという懸念が含まれている。

都道府県や市町村の教育委員会主導でどのような取り組みがなされてきたのかという調査が行われると思う。でも、それはあくまでも表向きの回答しか得られない。そこで大手メディアがテストを受けた子どもたちの家庭へ直接電話調査なりインターネット調査なり行っていくことが重要なんじゃないかと思う。単なる平均点や順位と言う結果や首長の言動をとやかく報道するよりずっと実のなる報道になると思う。


# by musapoo-world | 2014-09-05 11:03 | 落書き

1987年に始まった「シーラカンス通信」の流れを汲み、自分を見詰め、自分の道を模索する、自己療養のささやかな試みだから、月に一度程度のものぐさブログ。


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