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シーラカンスは深淵をゆく

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「ゆとり世代」へのラブレター

最近の「ゆとり世代」への反応が少し変わってきたように思う。見直されてきている感じだ。

今から書くのは厳密な調査をしたわけでもないし、資料や元となるデータを検証したわけでもないので、たんなる僕の戯言に過ぎない。それに一人一人の個々の話としてではなくざっくりと世代という捉え方で見ていること自体、無理があることは承知だ。ただ、長年、処理しきれないほどの多くの情報を頭の中に流し込んできて、それらが少しずつつながって今の考えが生まれてきているのは確かだ。

昨年までは「ゆとり世代」は社会に出ても何にもできないとひどい言われ方をしてきた。そのことでずいぶん辛い思いをしてきた人たちもいる。でも、最近「ゆとり世代」たたきをする人が少なくなってきた。だから、あえて僕が今になってこんなことを言う必要もないかなっていう気もするけれど、でも触れておきたい。たぶん、自分のためにまとめておきたい。

これは「ゆとり世代」の人たちへのラブレターです。

「ゆとり教育」では試行錯誤する時間を確保され、結果が出なくても結果を導こうと努力することを学んできている。また、画一的な問題ではなくそれぞれの学習状況に合わせた問題に取り組むことだって行われた。総合的な学習においては、自分が問題を思ったことを課題として追求し情報を集め再構築して発信するという思考活動を充分に行ってきている。ただし、一部の地域ではゆとりとして生まれた時間を受験対策に充ててしまったという学校も存在したようだ。

つまり、自分にとって価値のあるものなのかどうか見極めて、あると認められたらとことんのめり込んでいく。結果ではなく過程を重視する。これが「ゆとり世代」の姿だと考えている。

よく「我慢強くない」や「我がまま」だと言われていたけれど、それは「仕事」ではなく「仕事のやり方」に魅力がなかったからではないだろうか。やり方を押しつけられたりすぐに結果ばかりを求められていたからではないだろうか。彼らは失敗しながら試行錯誤してよりよいものを追求していくことのできる場で力を発揮できるのだ。

「ゆとり世代」を叩いたのはすぐ上の先輩に当たる30前後の世代だろう。40前後の世代はちょっと離れたところから見守る立場ではなかっただろうか。

30前後の世代。バブルの経験もなく非常に厳しい状況での仕事をしてきた人たちだ。おまけに世間ではニートやフリーター叩きが行われていたころに求人倍率の低い難関を突破して就職している。仕事内容が苦しくてもつまらなくてもありついた仕事に我慢してかじりついてきた。「ゆとり世代」が甘えているように見えて当然なのかも知れない。

そうした世代間のギャップが「ゆとり世代」叩きに動いてしまったように思う。

でも、効率良く結果だけを求められる集団よりも、試行錯誤を繰り返し結果よりも過程を重視する集団の方が将来性、発展性があるということはすでにいくつも研究されている。だいたい「ゆとり教育」が導入された時点でそれを狙っていた。当時、詰め込み教育に対する反省がされ落ちこぼれをなくそうと叫ばれ、物覚えがよくて言うことをよく聞ける子ではなく新しいものにチャレンジし発展性のある子を育てなければ日本の存亡にかかわると言われていたのだ。だから、「ゆとり世代」が2,3年して仕事をある程度任されるようになることには状況はもっと変わっていると思う。職場の雰囲気自体が変わってくると思う。逆に極端な話「ゆとり世代」が逃げ出していくような組織は先が知れていると思っていた方がいいかも知れない。「ゆとり世代」が生き生きしている組織(上の世代もきっとそれに呼応することはできると思う)は発展性があって仕事していて「面白い」と本当に思えるのではないだろうか。

だから僕は思うのだ。「ゆとり世代」が上の世代を巻き込みながら活躍していく姿をどうしても見たいのだ。


さて、話を具体的に分かりやすくするために子供のいる家庭の中の例えば

運動会の徒競走について
 「一番になれよ」とか「一番でがんばったな」なのか。
 それとも
 「一番になるために毎日一度は走っておけよ」とか「二番だったけれど毎日走ってがんばったよな」なのか。
どちらの声掛けをするか。

テストで間違えた時
 「間違えは間違え」と切り捨てるか
 「ここが違ってたんだ」と原因をみつけるか

結果を求めるか過程を求めるか・・・・。
そこには大きな違いが出てくる。








# by musapoo-world | 2014-05-23 16:20 | 日々の生活

【芸術家気質と職人気質】

お友達と作品づくりについて話をしていてこれまでモヤモヤしていたものがちょっと見えた。

これまで僕は色々な軸で表現者の立ち位置的なことを考えていた。

素人 ー 玄人
アマ ー プロ
芸術家気質 ー 職人気質

職業としてでなく(アマ)凄い作品を生み出す人(玄人)もいれば、撮り初めてそう時間がたっていないけれど(素人)編集者の目に留まって一気にプロになってしまう人もいる。プロでもアマでも芸術家気質の人もいれば職人気質の人もいる。

みんなそれぞれの目的や立場、経験、性質によって違ってくる。だからこれらの軸の誰が優れていて誰が劣っているかという話ではない。そして二つに分けるのではなくその中間的な存在だってある。

今回、僕がそうかと思ったのは「芸術家気質 ー 職人気質」の軸についてだ。

芸術家気質とはあくまでも表現したいものが自分の中にあってクライアントは自分自身だ。それとは逆に職人気質は型通りのものや注文に見合ったものを持てる技術やセンスを駆使して作りあげるクライアントが他者の人だ。

今回僕は6冊目の作品集を出すに当たってその軸に当てはめて考えていた。

芸術家気質寄り(クライアントは自分)
 水の姿・心の形
 Natural Rhythm
 Forest
 ぼくらのそばで咲いている
 すわり富士
 いつまでもずっといっしょ
職人気質寄り(クライアントは他者)

「いつまでもずっといっしょ」の双体道祖神の正面画像は、創造的な工夫はほとんどない。創造的な工夫というよりも像が一番分かりやすくなるように向きや環境によって季節や時刻、天気など撮影のための工夫に徹した。これは職人技ともし言ってもらえたら嬉しい。それに対して「水の姿・心の形」は徹底的に感情を水の姿で表そうと自分に問いかけ創造的な部分で努力した。そして中間にそんな感じで存在しているのだと考えた。

でももっと違った考えが浮かんできた。そういう直線的な見方をしてはいけないのではないかということ。

それはダ・ビンチやミケランジェロの存在だ。

彼らは偉大な芸術家であると同時に建築家(職人)でもある。つまり確固たる職人気質(技術)を持ち時代の要望に合った物を作りながら(クライアントは他者)、芸術的(創造的)な開拓者でもある(クライアントは自分)。その両方を持ち合わせていなければならないのではないかということ。

つまり、両極を高次に融合させることが必要なんだということ。

そんなところまで考えたけれど、さて、僕の作品集は高いレベルまでいっているのだろうか・・・。まだまだ低いレベルであがいている様にしか見えない。

# by musapoo-world | 2014-05-03 23:20 | 写真について

【焦点距離の話】

何日か前に数年ぶりに本屋さんで写真雑誌を立ち読みした。交換レンズの選び方みたいなものでした。そこには24mmはなんちゃら、28mmはなんちゃら、50mmはなんちゃら、85mmはなんちゃら・・・・・と焦点距離ごとの作例を上げながら説明してあったのですが、35mmについては触れられていないのです。35mmって単焦点レンズたくさん製造されているのになんでだろうって不思議に思ってしまいました。35mmの存在理由が認められなくなってしまったのか、それとも標準域に吸収されてしまったのかわかりません。

私は50mm標準と60mmマクロの2本、35mmと85mmの2本、このどちからで撮影することが多いのですが、最近、ちょっと変則的に85mmと28mmで撮影してみました。85mmは凝視した時の画角に近い、28mmはボンヤリと両目で眺めている画角に近いという話が定説になっていて、その2本があればほとんどの撮影が出来る、とおっしゃっていた方がいらっしゃったから試してみようと思ったのです。

85mmと言えばポートレートの標準レンズと言われるぐらいの焦点距離。これは立体感をぎりぎり保ちながらボケを生かした作品を作ることができるということと、モデルさんとの距離がある程度確保しながら緊張させずに撮ることができる、というのが一般的な見方で、望遠効果としてはあまり期待できないように触れられています。でも、50mmを多用している私にとっては85mmでも望遠効果(圧縮効果)を感じることができます。なによりも被写体との間合いが良い感じなのです。私にとって望遠側のレンズとして不動の地位を保ち続けています。ただし、遠いものを引き寄せたいと思う方にはまったく役に立たないと思います。

35mmは以前は報道写真の標準レンズと言われていたように思います。ある程度の範囲を入れながら主体をきっちり収めることのできる焦点距離。そして片目で見た時の画角に近いとも言われています。私の場合は立体感の誇張(パースペクティブ)をできるだけ抑えて広い範囲をとる場合にうってつけのレンズだと思っています。そこが28mmと大きく変わってくる所です。28mmはやはり誇張が強くなり、実際に見た物の形とは違った見え方になります。と、いうのは、広角側のレンズでは私はマクロに近い使い方をすることが多いからです。スナップを中心に撮っている方ならば、見た範囲をズバッと収めてくれる28mmの方が使いやすいのかも知れないのです。

もう一点、28mmと35mmの決定的な違いは28mmで撮影した物は50mmで撮影した物と見間違えることはありません。でも、35mmで撮影した物は場合によって50mmで撮影したものと間違えてしまうことがあります。それは50mmと100mmは間違えないけれど50mmと85mmは間違える場合があると同じです。逆の言い方をすれば、50mmで35mmみたいな写真も撮れるし85mmみたいな写真を撮ることができる、ということになります。

結局の所、私が使っていて使いやすいと感じるのは35mm-85mmなんだろうなと。28mmはちょっと不自然さが出てしまうかなって思います。ただ35-85mmの範囲では決して撮ることのできない写真がたくさんあります。それを諦めて写真という範疇の中で不自然さが出ない物を撮りたいと思えるかどうかかなと(写真自体すでに見た目とはちがった不自然なものではありますが)。

というわけで、しばらく85&28mmで撮ってきましたが85&35mmに戻したいと思っています。

雑誌の立ち読みから不思議に感じたことを自分なりに試して感じた結果でした。

# by musapoo-world | 2014-03-23 00:02 | 写真について

感情的で感覚的で短絡的な世界

ソチオリンピックが終わった。オリンピック組織委員長の暴言とかいってしばらくの間騒がれていた話題について考えてみた。

ニュースになったのは日本のトップスケーターでありアイドル的選手について「あの子は大事な時に転んじゃうんだよな」といったコメントだった。それに対するファンのバッシングが激しかった。確かにそこの部分だけ見ると「なんて無神経なことを言うんだろう」と思ってしまうかも知れない。でも、そのコメントを含む全文を読むとちょっと違った感じ方ができる。全体的には開催国のサービスについてとフィギャースケートのコーチ陣の戦略について言いたかったのだろうと思える。けっして選手を蔑んだようなことを言いたかったんじゃないんだと思う。

特に「あの子は大事な時に転んじゃうんだよな」のあとの「なんでだろう」の言葉。「なんでだろう」自分ではどんな時に使うか。

「あいつはこうなると、ああなってしまうんだよな。なんでだろう」

バカにしている、呆れている、のだろうか。ちょっと違う。どちらかというと気づかっている、心配している、というニュアンスのほうが強い。

そんな中、「どんな意図で発言したか分からないけれど、受け取る側がどう受けるとかが重要なんだ」という意見を目にした時、これまでモヤモヤしていたものがぱっと晴れたような気がした。

写真をやっていて否応なく考えさせられるのは、写真の見手がどう受け取るかという客観的な視点を持たなければならないという物だ。撮影者がどんなに気持ちを込めようが見手にそれを受け取ってもらえなければ意味がない。だから撮影する時、見る側に立って撮影しようとする。ましてや一日に何千何万と生産される写真のなかで自分の作品に目を留めてくれる人を増やそうとするならばなおさらだ。

でもそれを突き詰めていくと目を引くような見栄え重視の写真になっていってしまう。広告のように目につかなければならないものならばそれはしかたないけれど、作品として見栄えを重視したら、そこには何があるのだろう。


そうした撮影者と鑑賞者の関係、発言者と聞き手の関係のなかで、非常に受け手が重視されているという事についてのモヤモヤだ。


もしかしたら、受け取る側がとても感情的で感覚的で短絡的になっているんじゃないのかという点だ。瞬間的に判断したことを重視して深く考えない。自分の感じ方は正しいんだろうかっていう発想はほとんどない。そして写真で言えば「きれい・かわいい・すごい」の短い魔法の言葉でしか表現しない、というか表現できない。

そこには味わい深さとか趣は存在しない。


だから今、非常に危険な状態にあるのだと思う。国際関係において感情的に感覚的に短絡的に物事を判断する人たちが増え、それが国を動かす力にまでなったら嫌悪と憎悪をぶつけ合うだけの世界になってしまう。というよりもそういう人たちを利用して国を動かそうとしている一部の人たちがいるのかも知れない。






# by musapoo-world | 2014-03-01 20:43 | 日々の生活

記憶に残してもらえる写真を撮るために必要なことは何だろう

「僕にもできた」的なところで満足するならばそれはそれでいい。高価な機材を揃えて、雑誌などを読みあさって、撮影テクニックを駆使して、絶景ポイントで撮影して、加工処理していればいい。でも、その先に進むのに必要なのはなんだろう。

いい作品を鑑賞することは大切だ。鑑賞することで記憶として蓄積させて自分のセンスやテクニックに磨きをかける。それを元にして自分らしさというオリジナルを探し求めることになる。でも、センスやテクニックに重点を置いても、それはすぐに真似されてどんどん他の人が追い越していき自分の作品が人の記憶から消えていってしまう。

オリジナリティを維持しながら人の記憶に残る作品を残すためには何が必要なんだろう。

たぶんそれは被写体の捉え方、周りの見方なんじゃないかなと思う。そう、自分自身のことだ。自分は何をどう見ているのか。これは人が真似することは難しい。あなたは私ではないというところ。目の前に広がる風景のよさってなんだろう。この花の美しさってなんだろう。この人物の凄さってなんだろう。そう自分に問いかける。そしてその答えが一番強調できる角度から、一番強調できる瞬間にシャッターを切る。

そこまでいけばきっと鑑賞の見方が全然変わってくる。センスとかテクニックではなく作者が大切にしているものは何なのかという視点。場合によっては作者の撮影の動機とか背景とか生涯を通して訴えているものまで見えてくる。言葉で補足説明しなければならないような問題じゃない。一見して感じられる凄みだ。美しさとか優しさとか奇抜さとか特別なことではなく見ているものに圧倒してくるものだ。それが感じられないとどこかしら味気ない作品に見えてしまう。それが見えるようになってくると自分の作品にも何かしらの凄みを出せるようになってくるのだと思う。

さて、自分は今、どの段階をうろついているのだろう。問題はそこなのだ。

# by musapoo-world | 2014-03-01 18:17 | 写真について

1987年に始まった「シーラカンス通信」の流れを汲み、自分を見詰め、自分の道を模索する、自己療養のささやかな試みだから、月に一度程度のものぐさブログ。


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