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シーラカンスは深淵をゆく

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【いつまでもずっと一緒】と【移ろいゆく時の流れに佇んで】について

 この作品集のフォトムービーは作らなかった。双体道祖神の正面写真だけを集めた作品集だからだ。僕の作品集というよりも江戸時代から昭和までの石工さんたちの作品集だ。

 無事に定年退職したら撮り集めようと決めていたことを実行に移した。たぶん、一番手間ひまがかかっている。

 図書館に行く、市街地を自転車で走り回る、人通りの多いところにも入る。これまでできなかったことが出来るようになったのが嬉しかった。

 調べでは富士富士宮には250ぐらいの双体道祖神が存在しているらしい。でも、まとめられていた資料は古く、すでに撤去されてしまった物や位置や向きが変わっていた物もたくさんあった。そこで、家にいるときもGoogleearthのストリートビューを活用した。道祖神があると思われる古い道は全てパソコン上で走り回った。そして、Googlemapに得られた情報をプロットして無駄に走らないようにした。自然光にこだわっていたので、季節や時刻も選び、撮影に行くコースを決めて出かけた。

 小学生だった息子の春休みに、二人で自転車に乗って丸一日走り回ったこともした。地図を渡して二人で宝探しの旅。でも、写真ばかり撮っていていっこうに働こうとしない父親がどんな風に見えていたのか。僕の思いと家族の気持ちに大きな隔たりを感じてはいた。でも、まだどうにもならない状態だった。一緒にいるときは元気でも部屋にいるときはぐったりしていることが多かった。

 撮り回っているときに下校してきた子どもたちに取り囲まれてしまったことがあった。全身に汗が噴き出すのが分かった。それでも少しだけ道祖神について説明すると満足したみたいで帰って行った。僕はその日の予定を打ち切って家で横になった。情けなかった。20年以上も小学生に囲まれて生活してきたのに、だ。

 一番きつかったのが最後の小学校となった学区に5基以上の双体道祖神が存在することだった。それもその中の1基は学校の駐車場にあることが分かった。双体道祖神と知らずに僕はその前を毎日歩いていたのだ。辞めてから学区に入ることすら敬遠していたのに撮影する自信はまったくなかった。

 でも、敢行した。

 撮影のため初めて学区に入った日の記憶はない。

 記憶はないけれど、僕はその時また1つ階段を登ったんだとおもう。


 後にまとめた「移ろいゆく時の流れに佇んで」は、そのほとんどが「いつまでもずっと一緒」と並行して撮影した物だ。







# by musapoo-world | 2015-08-29 00:42 | 写真について

【ぼくらのそばで咲いている】について




 元々雑草の写真は好きだった。誰もが撮りたくなるような花よりも、ずっと自分の見方が試されるような気がする。この花を撮りたい、じゃなく行った場所でどれだけの花を見付けられるか。そして見つけた花の良さはどんなところか。どの花も同じように撮ってはいけない。先入観は邪魔になるだけの被写体。

 それは子どもたちを目の前にしても同じことで、一人一人がどんなときに輝こうとしているのか捉えることができるかだ。目立つ子だけじゃなくひっそりとしている子こそ見取っていきたい。そんな姿勢。

 元々はそんな発想から撮っていた。

 僕は写真を撮ることを理由に閉じこもりがちの自分を外に引っ張り出した。誰もいない場所から僕を知る人がいない場所に、そして人が出歩かない時間帯の近所、と長い時間をかけて撮影場所を身近にしてきた。人と会うのが恐かったし、それよりも声をかけられるのがもっと恐かった。

 でも、なんとか撮り続けた。それは、この作品集にはもっと違ったメッセージを込められるんじゃないかと感じ始めたからだ。自分の姿勢を具現化するだけじゃなく、会うことなんてもうとてもできそうにない子どもたちへのメッセージ。

 それはここでは言葉にしない。


 この「ぼくらのそばで咲いている」の流れは、違った形で7作目「Life」、8作目「View of the Flower」、9作目「花の紋章」に受け継がれていく。





# by musapoo-world | 2015-08-28 01:32 | 写真について

【すわり富士】について

 「すわり富士」という言葉を知ったのは、市町村の合併による閉町式のセレモニーだった。中学生代表がスピーチの中で「すわり富士」という言葉を使った。





 僕は富士山をあまり撮らない。あまりにも多くの人が撮っているので積極的になれなかった。それに、街で見かける富士山の写真はどれもいつも僕が見ている富士山とは違っていて、イメージで描かれる富士山のようで嘘っぽくて嫌だった。

 でも、富士山が見える土地で暮らして写真を撮っている以上、撮らなくちゃならないと言う強迫観念をいだいていた。だから、細々と撮ってきてはいた。

 この写真集に載せた富士山はほとんどが辞職前の物だ。デジタル、フィルム、どちらも混ざっている。カメラだっていろいろだ。色調や質感を揃えるようなことはしなかった。ようは、これまで撮ってきた富士山をまとめたかった。まとめて過去の自分とケリをつけたかった。

 それから、僕はまだ人と会うことが恐くて、人通りの多い時間帯に近所を撮り歩くことができなかった。だから手持ちの写真でまとめられるのはないか考えたら富士山ぐらいしかなかった。

 そして、写真家として歩き出すと決めたからには収入につなげなくちゃいけない。その点、富士山は支持を集めることができるだろうという下心もあった。

 いろいろな理由があったけれど「すわり富士」をまとめ始めた。

 ただ、作品集とするからには1本だけでも筋を通さなきゃならない。手持ちの富士山の写真を眺めながら浮んだのが「すわり富士」だった。僕の町で見られる富士山は「すわり富士」。そして同時に「三峰分立」といって中央に剣が峰がくる均整のとれた形をしている。その姿を、僕の知っている日常的な富士山としてでまとめられないか、思いはそこに至った。

 セレクトを進めていくと富士山の写真集というよりも、僕の町の素敵なところって感じになった。それはそれでかまわない。地域のよさを伝えることができたならそれでいい。そんなことも頭の隅で考えていた。

 
 この時期、僕の行動範囲は森から離れて、僕を知っている人がいない場所で、雑草写真を撮り始めていた。次の作品集となる「僕らのそばで咲いている」につながる。





# by musapoo-world | 2015-08-26 21:56 | 写真について

【Forest】について

【Forest】について_d0108395_01094618.jpg
 僕は抜け殻だった。僕という形骸が部屋で横たわっていた。いろいろな感情が押し寄せては引いていく。それに耐えるために自分を消し去ってしまったのかもしれない。出された物を食べる。聞かれたことに答える。家族が寝静まったら風呂に行く。ほとんど条件反射だけで過ごしていた。そして浮んでくるのは学校のことばかりだった。寝ても覚めても子どもたちのことばかりだった。

 この小さな窓を見ながら2ヶ月、状況は少しも変わらないどころか復帰のメドが立たない焦りが覆いかぶさってきた。そして時々戻ってくる自分が下した結論は辞職だった。学校から完全に自分を切り離す。それは、それまでの自分に死を宣告することと等しかった。



【Forest】





 結果的に僕のリハビリの場所となった森。

 結果的にというのは体力をつけ精神的に安らぐために行ったのでもなく、写真を撮りに行くつもりだったのでもない。辞職後、全てから解放されて少しだけ楽になった分、失った物の大きさに翻弄されていた。そして、茫然自失のまま死に場所を探すために彷徨ったのがこの森だ。


 熊がいるので出会ったら好都合だった。ぼんやりと歩いていて道が消えたことも気付けず帰り道を失ってしまったこともあった。でも、熊には出会わなかったし何となく歩いていたら戻ってしまった。あとから分かったのだけれどそのころはまだ森のほんの入口をウロウロしていただけだった。


 そして秋。3回目か4回目に森に入るときにカメラを初めて持ち込んだ。燃えるような紅葉が僕を包んでくれた。

 空っぽの状態で帰れなくなっても良いと思っていた僕に、ようやく一つのしたいことができた。

 写真を撮りたい。



 次の年から月に2回3回と森に入るようになった。体力的にも精神力的にも充分じゃなかったから、一度行くとそのあと3日ぐらいは起きれなかった。でも森が僕を呼んでいた。そして写真を撮り続けた。

 小さな花、キノコ、木々、木の葉、みんな精一杯生きていた。僕が学校で子どもたちを見ていたような目線で森の中の生き物を見ていた。というか、子どもたちを連れて探検にでかけるような気持ちだったのかも知れない。

 そして森の奥に教室を見付けた。
 並んだだれもいないベンチに子どもたちの姿が浮んだ。
 身動きできなかった。

 でも何回か来ているうちに、
「日直さん、あいさつ」
「周りを見てごらん。今日は森の中で授業だ」
なんて、そんなことをやったこともあった。

 そう、僕は森の生き物に触れているうちに自分を取り戻していた。もう死にたいと思うことが無くなっていた。

 秋、燃え落ちるようなブナの葉。落ち葉に埋もれた倒木。散っても倒れても次の命を育む役割を担っている。じゃぁ僕はどうだ。僕はまだこうして生きている。挫けてしまったとは言えまだ生きている。天職を全うすることができなかったけれど、まだ生きてできることがあるかもしれない。

 森の生き物は僕に「生きろ」と言ってくれていたように思う。


 僕は期限付きで写真家として活動しようと決めた。

 それからもう一度冬を越して、初めての作品集「Forest」を完成させた。






# by musapoo-world | 2015-08-26 03:01 | 写真について

【作品集の背景について】

 とりあえず3年間で10冊の作品集を作ってきた。11作目もゆっくりだけど進行中だ。

 そろそろ僕は自分の中にしまい込んできたことを言葉という形にして、まとめておかなければならない時期が来たのかも知れない。というよりも、そうしておきたいという気持ちになってきた。それは、僕はリアルな友達をほとんど失い、そしてネット上で新しい友達ができ、その両者への今の自分の釈明をしたいからなのかも知れない。

 そう、あれから4年以上の歳月が過ぎ、新しい道を歩き初めてもうすぐ1年になる。

 言葉は不完全であることは承知の上だ。言葉にするとそこにはなんらかの嘘が含まれてしまうかもしれないし、うまく言葉を使えず真意が込められないことだってある知れない。でも、ぽつりぽつりとでもいいから言葉として僕の今に至るまでのことを綴っておきたいと思う。それには一つ一つの作品集の背景を語ることで可能のような気がする。もちろん、うまく行くとは限らない。でも、始めてみようと思う。



 2011年5月。僕は天職だと思っていた仕事を投げ出した。それまでの無理が積み重なってギシギシと音を立てていた歯車が一気に崩れてしまった。噛み合わなくなったというよりも全ての歯車の軸が挫けてしまった感じだ。もっと言い表現があるのかも知れないけれどそれしか思いつかない。


 あの時、僕は36人のクラスの担任をしていた。そして彼らを投げ出した。それだけでなく、前年に担任していた子どもたちとの約束を全て反故にしてしまった。


 言葉にしてしまえばたったこれだけだ。
 でもこれに触れるために4年以上かかってしまった。
 自責の念、背任の意識、苦悩、不安、恐怖、それらのネガティブな圧力が僕をずっと黙らせていた。
 でも、このことを出さない限り作品集の背景は語れない。


 次は「Forest」について触れる。




# by musapoo-world | 2015-08-25 01:41 | 写真について

1987年に始まった「シーラカンス通信」の流れを汲み、自分を見詰め、自分の道を模索する、自己療養のささやかな試みだから、月に一度程度のものぐさブログ。


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