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シーラカンスは深淵をゆく

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Bill Douglas

心を深く包まれるような曲です。

# by musapoo-world | 2012-05-15 23:52 | YouTubeから | Comments(0)

ちょっとした冒険

 先日、家の裏山に登った。裏山って言うとそれほど高くないイメージだけど、ここの裏山はそうでもない。富士山を中心に円を描くように山系が連なっている。その一番内側の西南端の稜線がうちの裏山だ。南にずっと辿っていけば富士川で終わっている。

 この山系が伊豆半島の衝突によってできた頃は、単純な一本線だったと思う。それが長い年月によって稜線から尾根が生まれ複雑化した。下の図は中学か小学校の理科の教科書に出ているようなものを簡単に書いて見た。



 図の3が今の裏山の状態だ。家からパッとみると2ぐらいにしか見えないけれど、でも実際には小さな谷が尾根を削り込んでいる。もちろん北アルプスや南アルプスほど複雑なわけではない。

 そんな山へ登ってきた。

 子どもの頃はけっこう山に入っていた。大人たちも仕事で山に入っていた。だから山道がはっきりしていた。それが、山に入る人が減ってしまったため、山道が消えてしまっているところが多いのだ。今回の山登りで一番きつかったのは道が消えてしまうことだった。

 家の近くを流れる沢伝いに僕は木々の中に入った。よく使っていた道だ。沢は深くなり道の左側は川底までストンと20mぐらいの落ちている。そこで崖の途中から何かが飛び降りて反対側の急斜面を駆け登っていった。そして警戒信号だと思う鳴き声を上げていった。声からすると鹿ではない。鹿はもっと甲高くて金属的な声だ。たぶんカモシカだろう。

 こんな近くにまでカモシカが下りてきていること自体にちょっと驚いた。まだ出発して10分ぐらいしかたっていない。

 さらに進んでいくと40mも行かないうちに幅10mはない小さな土砂崩れで道が途絶えていた。一度戻って別ルートを辿るのもなんだから、道のない急斜面を直登して別ルートに合流するコースを選んだ。

 雪山の斜面を歩くみたいにつま先で土を蹴って足場を作り、一歩一歩よじ登っていった。五歩進んでは止まってコース取りを考えた。10mほど登ったところで道らしきものが横切っていた。これは人の道ではなく獣道だ。そこでまた一息つく。記憶では20mほどあと登れば道に出るはずだ。そんなことを考えていると左側から何かの視線を感じた。

 獣道は土砂崩れのところにも微かに筋がついていた。でも僕にはとても行けそうにもない。その土砂崩れの反対側にはまた道らしきものがあってそこにいたのだ。距離は20m離れていない。

 彼は首を傾げてこちらをじっと僕を見ている。二本の角が頭についている。「あんたはだぁれ」と聞かれているみたいだ。雄のカモシカだ。身動きしないで僕もずっと見ていた。そしてゆっくりとカメラをバックから出してレンズをつけると、彼は詰まらなそうにゆっくり反転して歩いていってしまった。

 家の近くとは言えここはカモシカの領域らしい。

 僕はちょっと嬉しくなってまた登り始めた。そして小さな尾根に辿り着くと見覚えのある山道があった。前回登った時の目標だった山の祠につながる別の道だ。帰る時にあるいた道だ。ちょっと安心して道を辿って行くとすぐに前回登ってきた道と合流し、山の祠に出た。

 今回はそのさらに奥に進む。出発当初は、辿ってきた沢の始点を回り込んで対岸を下る予定だった。でも、祠から頂上まで少しの距離だった。なので、頂上となる富士山を取り巻く稜線に出て、稜線伝いに南下して稜線をまたぐ国道とは名ばかりの狭い道路まで歩こうと思った。

 祠を出発するとすぐに沢の始点に出た。沢は大雨の度に上へ上へと崩れていく。去年の台風でかなり木が倒れ土が削られたらしい。植物が生えていない剥き出しの堀だ。

 そこからさらに登る道があったのでそこを登り始めた。僕にとっては初めての領域だ。でも、その道もすぐに消えてしまった。地面には獣の足跡ばかりだ。鹿やイノシシ。見通しの良いところならいいけれど、ボサの中で出合ったらただではすまない。相手を驚かせたら襲われる。

 所々に残る雑木の緑がきれいだった。ツツジや藤も咲いていた。僕はそのまま獣道を登り、結局急坂を直登するようなルートを辿ってしまった。

 稜線に辿り着いた。ここは行き来する人がいるようで道がはっきりして歩きやすかった。一度北上しこの辺りで一番高いところまで行った。ここまで登ると実際には木々で見えないけれど尾根に隠れていた里が見下ろせるはずだ。風は東風。家の方から吹き上げてくる。その風に乗ってなのか車の音や犬の鳴き声まで聞こえる。うちの犬の鳴き声のような声が聞こえたので大きな声で名前を呼んでみた。でも、返事は返ってこなかった。

 一番高いところまで来た。登り始めて2時間が過ぎていた。僕は進路を稜線伝いに南に向けて歩き出した。雨の気配がする。匂いだ。雨の湿った匂いがする。さっきまで太陽が出ていたのに雲に覆われてしまっているようだ。雨が降り出す時には僕がいる裏山の上の方はすぐに雲がかかる。下界からは雲に見えるけれど、ここではガスになる。でもまだガスは流れていない。

 なだらかな稜線を歩きながら目に付いたのがアオキの芽が食べられている光景だった。鹿やカモシカが食べた後だ。そして鹿の仲間のものではない獣の糞がたくさんあった。たぶんイノシシだと思う。

 稜線を辿って緩やかに下る。そして国道の手前でまた稜線はまた上に登る。その小さなピークには展望台がある。でもその上り口で雨が降り出した。僕は国道に出るのを諦め、上り口から東側へ伸びる尾根を下る山道を選んだ。国道の北側を深く流れる沢の対岸を下りていくのだ。道ははっきりしていてここも人が何度も出入りしている感じだった。

 ところが、その道がだんだん堀のようになってきた。人が作った道は雨水で堀になりやがて谷になり沢になっていくのだ。

 堀は倒木やごろごろした大きな石などで歩きにくかったので堀の南側を歩いていた。でも途中で彫刻刀で一直線に彫ったような谷に変わってしまった。このまま堀(谷)を左にしながら下りていくとどうなるか。頭の中で里の沢の位置関係を思い浮かべた。僕が下りようとしているのは国道の北側にある大きな沢の対岸。そこにあるお寺に下りる道だ。そのお寺の北側にはもう一つうちの菩提寺があるのだけど、その二つのお寺のあいだに沢があったかどうか・・・。記憶があいまいだ。もし、僕が目の前にしている谷になりかけている堀が国道の北側の沢と合流しているとなると、このまま下りると行き詰まってここまで戻ってこなければならない。ならば堀の北側を下った方が安全だ。

 僕は堀を越えて北側をくだった。道はなかった。かなりの急斜面を細かくジグザグに刻んで下っていった。堀はぐんぐん深い谷になった。急斜面を下り切るとなだらかな斜面の桧林になった。そして見覚えのある草原が見えた。菩提寺のお墓の横の草原だ。

 雨は大粒に変わった。歩きながら二つのお寺のあいだにも沢があったことを思い出した。もし南側を下っていっても、国道に近いお寺の上に出られた可能性が高い。まぁ、とにかくこの雨だ。家の近くに出られたことが幸いだった。

 家に着いたら12時を過ぎていた。考えて見たら、僕はこの山登りの間、一度も座っていなかった。写真を撮るためにしゃがむことはあったけれど、お尻を地面につけなかった。昼ご飯を食べるために椅子に座ったら、どっと疲れが押し寄せてきた。

 でもそれは、気持ちのいい疲れだった。

 今度は記憶と勘を頼りにしないで、地図を見ながら登って見たい。その方が、もっと地形のことを把握できるのではないかと思う。

 さもない山なんだけど、山歩きが楽しくてしかたない。

 歩き回っての感覚的な概略図。

# by musapoo-world | 2012-05-11 00:38 | 日々の生活 | Comments(0)

会話って何?

 僕は「マニアック」ではなく「マニア」だとよく言われた。どうも僕の会話は狭くて深いらしい。それも極端に。

 例えば写真のこと。どういう場面を撮りたいんだとかこんな表情をしている瞬間を撮りたいんだとか、そういうレベルの話が僕とできる職場の人はいなかった。カメラ機材については今はないContaxのレンズのことなら詳しい。でも、ほかのデジカメやレンズについてはほとんど分からない。懐中電灯についてはSUREFIREとMAGLIGHTのことにはそこそこ話ができるけれど、懐中電灯の話で盛り上がれる人は僕のまわりにはいない。ツールナイフのLEATHERMANにしたってそうだし、ColmanやPrimusのガスバーナーや鍋の話だってできる人はいない。Filemakerのデータベースの作り方で盛り上がることだってできない。

 じゃぁ、僕は日頃何を話していたんだろう。

 スポーツ選手や試合の結果なんて知らないし、ファッションだって気にしない。どこにおいしいお店があるなんて分からないし、流行りのグッズなんて興味ない。

 だからそういう話題が持ち上がると僕は口を閉ざして仕事に専念する。

 僕が興味があって会話ができたのは、「僕は(または自分たちが)どうだったからそうなったんだ」という仕事に関係したことばかりだ。それってものすごくつまらないようだけど、僕にとっては一番面白かったし、少なくとも僕とそうした会話をしていた人たちも面白そうにしていた。「やっちまった〜」と叫びながら、失敗談だっていっぱい話した。そしてそれを笑い飛ばして次に向かう。

 仕事の活力だったよう思う。物事に対してどういう考え方をしてどういう行動をするのか分かり合える気がしていた。互いに"人となり"をシェアし合っていた。

 ファッションやグッズなどの情報を互いにシェアしたって、共感し合うだけでその先にあるものはなんだろう。でも、昔から日本人はそういう話が好きだった。特に若い頃は知らないとバカにされたり疎まれたりする。かつてのマスメディアの役割はそうした情報の共有化を一手に引き受けてくれていた。だからみんなが見ているテレビ番組や雑誌を見ていないと会話に入れない、なんてことがままあることだった。

 それが一人一人が情報を発信できるネット時代がやってきて、どれだけ魅力ある情報を持っているかが重要視されるようになってきた。ただそれは井戸端会議のグローバル化に過ぎない。

 以前、FBで「コミュニケーション能力って何だろう」って話で盛り上がったことがあった。相手に合わせて会話をやり取りする力や、自分や自分の考え良さを伝える力じゃないっていう話をした。

 コミュニケーションは自分と他者の考えが混ざったりぶつかったりして新しいモノを見出す力だと思っている。つまり自分の中に自分がないと、それができないのだ。

 情報は自分じゃない。

 最近すごく思うことは、FBやTWでコミュニケーションまで発展させることのできる人が少ないということだ。井戸端会議的な情報の共有で終わってしまっている。これは日本人の特性なんだろうか。

 自分を語れない、晒せない。というか自分を持っていないのかも知れない。「自分はどう考えるのか、どう感じるのか」ではなく、「自分は○○が好きな人だ」で自分を表現しようとしている。それって他人のモノや言葉を借りているに過ぎない。

 僕は「いいねボタン」なんて大っ嫌いだ。まだ「シェアボタン」の方がましだ。シェアボタンは自分のコメントを載せられる。

 その反面、ブログは好きだ。情報ばかりを載せているのはうんざりするけれど、FBやTWよりもずっと自分を表現できる。ただ、今後ブログは消えていく運命だという人もいる。つまり、それは今後の日本は、もっともっと自分を語れない人が増えて井戸端会議的な情報の共有だけでコミュニケーションを取っていると思い込む社会になってしまうということだ。


 とにかく情報の共有も確かに大切なんだけど、それよりも大切なのは"人となり"の共有なんだと思う。それができる集団には活力がある。競争原理からくる活力ではなく、温もりのある活力が。


# by musapoo-world | 2012-05-02 00:50 | 日々の生活 | Comments(2)

田植えとピンクフロイドと能面男

 今日は田植えだった。僕の役目は手直しだ。田植え機で植えることのできない田んぼの隅や、田植え機の調子によって苗が刺さっていないところに手で植えていくのだ。

 歩きにくい田んぼの中をバランスを取りながら少しずつ進んで、苗がないところを見つけては腰を曲げて植えていく。頭なんて使わない。ただ条件反射的に体を動かしていけばいいのだ。毎年のこととは言え午後になると腰がパンパンになってくる。

 まぁ、退屈な作業ではあるけれど、その間中、僕はいろんなことを考える。毎年たぶん違うことだと思う。

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 今年はまずピンクフロイドの"A Momentary Lapse Of Reason"に収録されている「Signs Of Life」が頭を埋めていた。この曲の始まりは水と言うか田んぼの中を歩いているような音から始まる。そして美しいコード進行のあとこの曲のメインとなるメローディが奏でられる。その旋律が少しアジアっぽい雰囲気があったので、僕は勝手に田んぼを歩いているんだと思い込んでいた。

 でもそれは違った。田んぼを歩くような音はボートを漕ぐ音だった。何故分かったかと言うとピンクフロイドのコンサートの様子をYouTubeで見たからだ。



 ピンクフロイドはパソコンがまだなかった時代から曲に合わせた映像をスクリーンに映し出してコンサートを行っていた。音楽と映像の融合。素晴らしいロックバンドだ。

 ただ、本当にボートを漕ぐ音なんだどうか。曲を作ったメンバーは当初田んぼを歩く音をイメージしていたのではないのか。それが映像を付加する時点で切り替えられてしまったのではないか。

 原作と映画化された脚本で話がまるで違ってしまっているものがある。時間の制約の原作と時間の制限のある映画では当然脚本化される時点で変更しなければならないことはある。ただ、売れ筋を考慮して変更されてしまうこともあるのだ。ようは儲けるためにだ。監督が主導して彼の作品を作り上げていくのならまだ分かる。でも、出資者がああでもないこうでもないと口を挟んで脚本がどんどん書き換えられていくというのもあって、それはなんか許せないような気がする。原作者に対しても脚本家に対しても監督に対してもあまりにも失礼ではないだろうか。

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 なんてことを考えながら苗を田んぼに挿していた。

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 次は能面男についてだ。
 能面男とは声をかけても表情を変えず、会話にも入ろうとせず、感情を全く出さない男のことだ。

 一緒に仕事をすることになったらちょっとやりにくいだろう。

 なぜ能面男になってしまうのだろう。
1)もともと感情を失ってしまっている。
2)仕事は仕事で感情は絡めない生き方をしている。
3)感情はあっても自分で出し方が分からない。
4)感情を表す興味あるものがない。

 きっとまだまだ理由はあるだろう。

 その自分を含めて職場のほとんどの人に対して能面を通しているのに、同じ職場のある特定の女性には感情らしきものを表現している姿を目撃したら、それはみんなぶっ飛んでしまうだろう。
 1)の感情がないわけではない。2)の仕事は仕事として割り切っているのでもない。

 3)の出し方が分からないというのはあるかも知れない。能面男の感情を引き出す何か特殊なものをその女性が持っているのかもしれない。
 それに4)の興味が絡んでくると雰囲気が怪しくなってくる。もともと内気で自分から何も話せない男が女の子に声をかけられて一気に恋に落ちてしまうなんてことはよくある。能面男が彼女に対して何らかの甘い期待を抱いていたとしたら、まわりにいる人はもっとやりにくくなるだろう。

 ある意味では自分も能面男の面がある。自分から自分を出すことができない。誰かに引っ張り出してもらうことの方が圧倒的に多い。求められればそれ以上のことを返すような生き方をしてきた。もし求められなければ少しも輝くことができない。そういう意味で、能面男なのかも知れない。でも、こうして求められているわけでもないのにブログで発信していると言うのは、完全な能面男ではないのかもしれない。もしかしたら話の能面男は、ネットの世界では有名な雄弁家だったりすることだってあり得る。

 想像はつきない。

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 何か単純な作業をしている時って、こんな風にああでもないこうでもないと考えることが多い。僕には退屈な時間なんてないのかも知れない。


# by musapoo-world | 2012-04-28 20:11 | 日々の生活 | Comments(0)

写真の新たな展開

 10ヶ月前まではブログでの公開だけを楽しみにしていた。でも、ちょっとチャレンジして見たくなって、国内の写真販売サイトに応募するようになった。さらに2ヶ月前、世界中の写真家が集まる
写真投稿サイトにも投稿するようにもなった。その投稿サイトが最近になって写真の販売もできるようになった。

 ブログは写真の長辺が1024pにしている。

 国内の販売サイトは原画サイズでエフェクトなし。

 海外の投稿販売サイトはソフトタッチのレタッチしたものと、表示用の長辺800pの画像。

 つまり、1枚の写真で多くて4枚のデータを作ることになる。投稿する時にどこ用のデータなのか間違えを最小限にするため 写真データの管理を一度切り替えないとならなくなった。また、国内の販売サイトの登録のしかたには、他のサイトで販売することができなかったりできたりする登録の違いもある。どのような登録のしかたをしているのかもすぐに分かるようにしなければならない。

 自分の手元にあるデータと投稿したデータのフォルダー構造を同じにする作業で、けっこう時間を食われてしまった。そして海外のサイトに投稿して販売するデータの処理にも時間がかかってしまった。それでも、なんとかケリがついた。



 ブログ、国内、国外とそれぞれ3つの自分の中の位置付けもはっきりしてきた。

 ブログは1日1枚で被写体に対する日記的な存在だ。僕にとってはベース基地だ。すべては写真ブログから始まる。自分の写真に対する方向を探すためのものであり、そして足跡になる。

 国内の販売サイトはブログに載せたことがない写真も含めて応募している。ただし、審査を通らなければならないのだけど、今のところのNG率は30%。3枚に2枚は審査を通過して登録されている。ただ、このサイトは明るく清潔で希望に満ちた商用写真(広告に使われるのが多いようだ)に力を入れているので、僕の写真はなかなか通用しない。僕の写真は、何かしら重くて暗いのが多いから、広告には使いにくいと思う。だからといって、ニーズに合わせた写真ばかりをこれから撮っていこうとも思っていない。

 海外の投稿販売サイトの位置付けはちょっと難しい。投稿者どうして投票を行って写真に点数がつけられるのだ。自分がいいと思っていても評価されないものもあるし、その逆もある。海外の方のアップしたての写真でこれは高得点がつくだろうと言う物が、数時間後に高得点になったり、投票したのが僕だけで得点が伸びないものがあったり、なかにはどうして高得点がつくのか分からない写真もある。どうせ投稿するのなら高得点を狙って見たいし、自分のよしとする写真を世界の人に問うて見たいし、なかなか面白いと言えば面白い。だから、そこは僕にとっての作品展示場になっている。そしてもしかしたら購入してくれる人がいたらいいなぁぐらいの気持ちでいる。

 投稿し始めた頃は毎日アップしていたけれど、今はこれはと思う写真だけアップするように切り替えている。本当の意味でmusapooの写真展示場にしようと思っている。

 とにかく、この一年で僕の写真公開の状況が大きく変わってきた。誰もが気軽に写真を楽しむ時代だからこそ、それに反して重苦しく楽しむ方向にむかって僕はあるいている。


 そして、僕の写真のテーマが見え始めてきている。きれいじゃなくてもいい。珍しくなくてもいい。技巧的に上手くなくてもいい。奇抜じゃなくてもいい。刺激的でなくてもいい。だから人気がなくてもいい。でも、じっくりと見ていると力強さや優しさを感じてもらえるような写真を撮りたい。

 見てくれはおいしそうに見えないスルメは、口に入れてかめばかむほど味がにじみ出てくる。そんなスルメのような写真を撮りたいのだ。

 めざすは「スルメ写真」だ。

 そして、自分に一つの枠をはめる。国内の販売サイトの売れ行きがいいのは、どうもモデルを使った「希望」「信頼」「安心」などを表す、完全に広告用の「やらせ写真」だ。僕は、それらの写真には手を染めたくはない。


# by musapoo-world | 2012-04-23 22:05 | 写真について | Comments(0)
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1987年に始まった「シーラカンス通信」の流れを汲み、自分を見詰め、自分の道を模索する、自己療養のささやかな試みだから、月に一度程度のものぐさブログ。


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